東京大学先端科学技術研究センター特任教授 田中敏明先生「高齢認知障害者のための複合感覚刺激を利用した日常生活支援注意喚起システム開発研究」
身体障害者福祉や高齢者福祉と比べて、認知機能に障害を持つ人々への援助は未だ不十分です。しかし高齢認知障害者は現在約150万人、2020年代には300万人を超えると推計されており、後期高齢者の増加に伴う深刻化が懸念されます。そこで、東京大学先端科学技術研究センターにおいて人間情報工学を専門とする田中敏明先生に、当財団の理事・杉井清昌がお話を伺ってきました。
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- 杉井田中先生は以前、臨床の現場におられたのですね。
- 田中先生
はい。理学療法士として札幌医科大学附属病院に勤務し、患者さんのリハビリに携わっていました。しかし一生懸命リハビリをしてようやく歩けるようになっても、半測空間無視や認知症などの障害がある人は壁や人にぶつかって怪我をしたり、車いす操作を誤って転倒・転落事故を起こすリスクが高く、心配した家族が本人を車いすに座らせて全面的に移動介助をしてしまうなど、せっかく回復した歩行能力が再び落ちてしまうというケースが多く見られました。
- 杉井転倒等の事故は、車いす操作のどの部分で発生しやすいのですか。
- 田中先生
ベッドサイドやトイレにおける車いす移乗時の転倒や、ブレーキをかけ忘れたり、フットレスト(もしくはフットサポート)を上げ忘れた状態で立ち上がって転倒するケースが目立ちます。患者が安全かつ自立した車いす移動を行うためにはブレーキとフットレスト操作を身に付けることが必要なのですが、認知症の患者は目的に沿った効果的な行動をとることが難しく、半測空間無視の患者は無視側のものを自力で見つけることが困難なのです。
- 杉井半測空間無視は、半盲や視野欠損とはどう違うのですか。
- 田中先生
視野欠損は種々の疾患によって見えない部分を生じますが、見えないという状態を本人が把握しやすい場合が多いです。このため「自分はこの部分が見えていないんだ」と理解して、ある程度自立して行動できます。一方、半測空間無視は脳の損傷が原因であるため“見えない部分”を本人が自覚認識することが難しいです。例えば、食事のときに左半分だけ食べ残したり、車いすや歩行での移動時に次第に片側一方に寄っていくなどの症状が見られますが、本人は「全部見えている」と思っているため、他者による注意喚起が重要になります。
- 杉井まさに“認知”の障害ですね。半測空間無視の障害がある人は、どれくらいいるのですか。
- 田中先生
脳卒中の患者の約2-3割に、この障害が残るとも言われています。視空間の認識障害に限らず、失認症、失語症、記憶障害、注意障害などを含む高次脳機能障害者は毎年国内で数万人単位で発生していると考えられていますから、万単位でこの障害のため歩行能力があっても自立した移動ができない障がい者や、車いすでの自立も困難な方もおられると予想されます。
リハビリテーションに携わる者としてこの状況を何とかしたいと考え、15年前、視覚情報をコンピュータ処理して認知できる視野領域に呈示する視覚情報呈示装置の開発研究と自走式の車いすの使用時に「正しい手順での操作を促す機能」と「誤作動時に注意喚起を行う機能」を備えたシステムの研究に着手しました。 - 杉井その結果生まれたのが、このHMDと、車いす用の複数感覚刺激による注意喚起システムですね。まず、15年前から研究を続けているというHMDについて教えていただけますか。
- 田中先生
このHMDは、CCDカメラで撮った映像に縮小等の画像処理をかけてディスプレイに表示することで、半測空間無視がある人の視覚を補うとともに、注意喚起を行うシステムです。例えば左側に30%の無視空間がある人には、カメラで撮った映像を70%に縮小して、右側の見える範囲に表示します。これにより、認識できる視野が70%であっても100%の空間を認識できるようになります。さらに画面の左側に矢印などを表示して、無視側の注意を促すこともできます。しかし15年前は、まだカメラの技術が十分ではありませんでした。映像がディスプレイに表示されるまでどうしても0.1秒以上の遅延が生じてしまうため、やむなく研究を休止したのです。
- 杉井0.1秒のズレでも、違和感を感じるものですか。
- 田中先生
0.01-0.03秒程度で抑えなければ、自分の動きと目の前の画像が合わないために気分が悪くなってしまう場合があります。7、8年後にようやく技術が追いついて、市販のCCDカメラでも遅れが少なく映像を送れるようになり、研究を再開しました。また、セコム科学技術振興財団の助成をいただけることになり、車イスなどの日常生活を支援するためのHMD本体の軽量化や注意喚起用画像処理方法など、研究を大きく進めることができました。