東京大学先端科学技術研究センター特任教授 田中敏明先生「高齢認知障害者のための複合感覚刺激を利用した日常生活支援注意喚起システム開発研究」


  • 杉井
    初めて田中先生の研究を拝見したとき、正直、「転倒事故等のリスクを軽減したいなら、安全性を高めたオートマティックの車いすを作った方が早いんじゃないか」と思いました。しかしお話しを聞くうちに、研究の目的が「完璧な機械」を作ることではなく、リハビリテーションの理念に基づいた「患者の残存能力を高めるための支援機器」であることが分かりました。脳卒中で歩行が困難になってしまった患者さんに、「これがあれば安全に移動できますよ」とオートマティックの車いすを勧めることと、「自分の足で歩けるように頑張りましょう」と励ましながらリハビリ支援を行うこと、どちらが患者さんのためになるかは明白ですね。このHMDの開発は、リハビリ支援を行う理学療法士や作業療法士にもニーズが高いと聞きました。

  • 田中先生
     はい。従来の無視空間の検査は、紙に書かれた短い線のすべてに印を付けていき、左右どちら側の何%の線を見落としているかで判定する線分抹消試験が主でした。しかしこの方法では、2次元的な評価しかできません。実際、線分抹消試験で100%のスコアを出したために無視空間が無いと思われた人が、日常生活の中で明らかに無視空間が存在する行動をとることもありました。
     また、視空間認知障害には、自分の身体を中心に対象物の方向を位置づける「身体中心座標」と、身体以外の対象物または参照枠を中心に位置づける「物体中心座標」の2つの座標系障害があると考えられていますが、これまでは身体中心と物体中心のどちらの障害が重いのかを把握する方法はありませんでした。しかしこのHMDを使えば、体を動かしても検査用紙の画像が動かない物体中心条件での検査や、頭や体の動きに伴って画像も動く身体中心条件での検査が可能です。

  • 杉井
    物体中心と身体中心のどちらの障害が重いか分かるため、より効果的なリハビリ計画を立てて実行することができるというわけですね。半測空間無視の状態は、リハビリによって回復するのですか。

  • 田中先生
     脳の損傷の程度によりますが、我々の研究では、通常のリハビリに加えHMDを使用してより詳しく3次元的に空間無視を検査訓練可能ですので、正確かつ効率的に無視障害が改善するという結果も得ています。はじめは70%の縮小をかけなければ検査用紙の全体を認識できなかった人が、次第に80%や90%の縮小率でも問題なく見えるようになり、退院するころにはHMDが不要になっていたという事例もありました。

  • 杉井
    検査でもリハビリでも、画期的なシステムといえますね。ところで、このHMDは画像が立体的に見えることも大きな特徴ですが、特殊な画像処理システムを使っているのでしょうか。

  • 田中先生
     3Dに見せる等の特別なプログラムは使用していません。カメラを2眼にして、右カメラ・左カメラそれぞれの画像を、ディスプレイの右側・左側に映しているのです。私たちは普段左右の目で風景を見て、頭の中で空間を把握しています。それと同じ構造なので、自然に立体的に見えるのです。

  • 杉井
    2入力・2出力のHMDは市場ではほとんど見ませんが、人間がものを見ているシステムを考えれば、2入力2出力は自然な感じがします。バーチャル酔いや疲れなどについてはいかがですか。

  • 田中先生
     臨床データでは、今のところ30分程度の使用であればバーチャル酔いも疲れも出ていません。また、机上のような静的な検査であれば多少頭を振ってもHMDの画像に目立った遅延は起こりません。次のステップとして、車いすでの移動や歩行等の動的な環境下でもクリアな画像を維持できるよう、改良を進めているところです。

  • 杉井
    それでは次に、車いす用の注意喚起システムについて教えてください。

  • 田中先生
     このシステムは、一般的な自走式車いすのブレーキ、フットレスト、座面にセンサを配置し、発光ダイオードランプ(LDE)による光表示、スピーカーからの音声表示、透過型HMDによる矢印・文字表示、振動ベルトによる振動表示を用いて、車いすの正しい操作手順を誘導したり、誤作動があった場合の警告を行うものです。「光+音声」「HMD+光+振動」「音声のみ」など、さまざまな組み合わせで車いす操作のエラー状況を比較検討しました。

  • 杉井
    障害の種類や重さによって、それぞれの注意喚起の効果が違ってきそうですね。

  • 田中先生
     おっしゃるとおりです。半測空間無視がある人はHMDの矢印と文字表示で、ブレーキのかけ忘れ、フットレストの上げ忘れが軽減し、操作の手順を間違えた場合も指示に従って修正できること分かりました。認知症の人は「光+音声」による注意喚起で、転倒回避の効果が期待できる結果がでました。
     現在はベッドサイドから車いすへの移乗時の注意喚起を行っていますが、今後はトイレに行って車いすから便座に移乗する動作の練習も考えています。