安田浩財団理事 東京電機大学 未来科学部学部長 東京大学名誉教授 高柳記念賞受賞記念インタビュー「画像・映像をコンパクトに表現するための符号化方式および通信に関わる研究と国際標準化への貢献」

一般に、技術の世界では、世界各国とも自国方式で主導権をにぎり、それを広げようとします。ビデオの規格、コンピュータのOSのように国際標準化は困難を極めるのが普通です。しかし、画像圧縮技術は違いました。国際標準化の話し合いがなされ、静止画はJPEG、動画はMPEG1とMPEG2で統一され、その後の発展に大きな貢献がなされたのです。なんと、その立役者は安田浩先生(セコム科学技術振興財団・理事)という一人の日本人であるという事実はあまり知られていません。長年にわたる研究業績と技術普及への貢献が認められ、高柳記念賞を受賞されたのを期に、お話を伺いしました。

セコム科学技術振興財団・理事。
1967年3月東京大学工学部卒業、1972年3月同大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。1972年4月日本電信電話公社へ入社、1995年7月情報通信研究所長を経て、 1997年3月に退社。
1997年4月より東京大学先端科学技術研究センター教授として着任。1998年4月より同大学国際・産学共同研究センター教授、2003年4月から 2005年3月まで同センター長を務め、2007年3月31日に東京大学を退職(6月19日東京大学名誉教授)。2007年4月1日東京電機大学未来科学部情報メディア学科教授に着任、 2008年6月15日同大学総合メディアセンター長に就任し、現在に至る。
  画像処理、画像符号化などの分野に携わり、JPEG、MPEG規格標準化での功績により1996年10月米国テレビ芸術科学アカデミーよりエミー賞(技術開発部門)を国際標準化貢献者として初めて受賞。また2000年6月IEEEの国際標準化貢献者を表彰するチャールズ・プローテウス・スタインメッツ賞を米国人以外では初めて受賞。2009年紫綬褒章受賞。

高柳記念賞の受賞、おめでとうございます。

 ありがとうございます。この賞は“テレビの父”と呼ばれる故高柳健次郎先生の功績を記念し、電子科学に関する優れた研究に対して行われるものです。今年はテレビの本放送がはじまってからちょうど60年です。そのような記念すべき年にこの素晴らしい賞をいただけたことを心から誇りに思います。また、今回の受賞は「研究者としてやっと一人前になれた」という思いが重なり、非常に嬉しいものがありました。

先生の専門についてお教えください。

 私の研究は多岐にわたりますが、静止画、動画などあらゆる画像を世の中に広めたいという思いで研究をすすめてきました。いい画像が手元にあったとして、それを皆に見てもらうためには、相手に送らなければならず、なるべくデータ量を少なくしなければいけません。そのため画像圧縮技術の開発に力をいれてきました。また技術の普及面では、セキュリティがしっかりとしていなければなりません。ですから、静止画と動画、通信、セキュリティ、そしてコンピュータグラフィックス(CG)までが研究の対象です。

研究者になられた動機は何でしょうか。

 大学に入学したころ、映画全盛の時代で、長谷川一夫の『続次郎長富士』や市川雷蔵の『眠狂四郎』シリーズなど、それらにたいへん魅せられました。そこで映像のもつ可能性に期待し、大学に入学してからESSで英語劇をやるようになり、舞台を経験することができました。なかでも思い出深いのが、芥川龍之介の『羅生門』です。会場の杉並公会堂は満員になるほどの盛況であったため緊張してしまい、セリフがなかなか口からでないというハプニングがあり、これを周りから笑われたことで悲劇が喜劇へとなってしまったことをよく憶えております。写真中央が私です。本番で上手くいかなかったことからどうも自分には、演劇の才能がないということで「それなら映像表現を裏から支えよう」と一念発起し、映像の圧縮符号化技術に本格的に挑戦することになったのです。

そもそもなぜ圧縮が必要なのでしょうか。

 各種メディアで1時間、情報を楽しむと仮定すると、文庫本のテキストで380KB、音楽では270MB、映像では100Gとなります。プロセッサ処理能力の発達した現代でも、家庭のパソコンなどでは大容量データを処理できなくなるものがありますから、映像には圧縮技術が不可欠なのです。
 人間は不思議なもので、最初に100×100の画像をみせると、40×40の画像でも、それなりに見ることができます。情報量が減ってもそれを補う力をもっているわけです。さすがに5×5では、元の画像からかけ離れてしまいますから、圧縮には「どこまで許容できるか」を見極めねばならない“評価”という問題も同時に重要です。

いつ頃から画像、映像技術の標準化に携われたのですか。

 大学院を卒業した後も、画像の世界に携わりたかったため、資金が潤沢にあったNTTに入社しました。そこで本格的に研究を始めまして、JPEGに関しては1980年代中盤の黎明期から関わっています。ただこの頃はISOの委員会のなかでも「下っ端」でしたから大した活躍はできませんでしたが、1990年代に入りMPEG1をどう標準化するかという議論になったころから、めでたく委員長に昇格となりましたので、技術者兼マネージャーとして標準化に尽力することができました。

それほど標準化に力を入れられたのはなぜでしょうか。

 いくら新しい技術を作っても「標準化」ができなければ、一般ユーザーにとって極めて不便なものになり、普及しないからです。写真をみてください。上の写真は電源コンセント用万能プラグとよばれています。中央が日本のもの、その周りの輪の部分を回すことによってアメリカ、イギリスなど世界中の国々の規格に合わせることができます。左の写真は世界各国の通信コンセントの規格です。このようなものを持ち歩かなければ安心して学会などで海外にでかけられませんでした。画像の世界では、これらのようにユーザーが不便をする失敗を繰り返したくなかったのです。

JPEGを国際標準化した経緯について教えてください。

 各国から不満がでないようにコンテスト形式を採用しました。10ほどの国から応募がありトップの3国、フランス、日本、アメリカの会社による最終選考となりました。フランスは直交変換方式、日本とアメリカは波形を使用した方式です。このとき私は議長として「直交変換であるフランス方式が優れているのは明らかであり、あとはこの方式を実現する際のハードウェアだけの問題だ。日本は下りるからアメリカも下りてくれないか」と頼みこみました。この説得が功を奏し、やっとのことで標準化にこぎつけられたというわけです。