脳機能障害のリハビリ支援のための
フィードフォワード・エンハンサ
高橋 宏知 先生

東京大学 大学院 情報理工学系研究科 知能機械情報学専攻 教授

助成期間: 令和5年度〜 キーワード:神経工学 神経科学 脳科学 研究室ホームページ

2003年に東京大学にて博士(工学)を取得。同大学にて、2003年より大学院工学系研究科助手を務めた後、2004年より情報理工学系研究科講師、2006年より先端科学技術研究センター講師を歴任。2008年から2012年にはJSTさきがけ研究者としても研究に従事する。2019年に東京大学大学院 情報理工学系研究科准教授に着任し、2023年より現職。

まずは、機械工学をご専門とされる高橋先生が、医工連携の研究に携わることになった背景を教えてください。

大学生のとき、指導教員の勧めで医学部との共同研究を開始したのがきっかけです。卒論・修論を通して、咽頭がん患者さんのための音声発声システム開発に取り組みました。

その後、医学部耳鼻科の先生が、臨床的に用いられていた聴性誘発電位の起源の理解に向けて動物の脳波を計測されていることを知りました。ただ、当時はとても簡易的な電極を使用されていたのです。そこで機械工学の立場から「より高精度なマルチ電極を作れますよ」と提案し、実際に作製してお渡ししました。これを機に博士課程で本格的な聴覚研究へ足を踏み入れ、いつしか「ラットも扱うエンジニア」になっていました。

現在は、自分で動物実験をしたり、自治医大の先生と脳機能イメージングを行ったり、音楽を制作する方々と協力したりしながら、学際的なスタイルで研究に取り組んでいます。

最初は「ものづくり」を担当していたが、次第に「作った装置を自分で使って脳のメカニズムを解明するほうが面白い」と感じるようになった。好奇心のままに突き詰めていくうち、よりディープな研究の世界へと引き込まれていった

今回のご研究では、脳機能障害のリハビリ支援に着目しておられます。現在臨床で行われている治療法には、どのようなものがありますか。

脳卒中後の効果的なリハビリ手法の一つとして、迷走神経刺激療法(VNS)が期待されています。頸動脈付近を走る迷走神経(脳と末梢器官との情報伝達を担う神経)に皮下の装置から電気刺激を与えるもので、元々は難治性てんかんの治療法として確立されたものです。私は長年にわたって、このVNSの基礎研究に携わってきました。

これまでに、VNSにはさまざまな効果があることが知られてきました。例えば、認知・記憶能力の向上や抗うつ、そして脳機能障害のリハビリ促進などです。その一方で、創造性や思考の柔軟性が低下するという報告もあります。

一箇所を刺激するだけで、なぜこれほど多様な現象が起きるのか。VNSに関わる研究を進めるなかで、「予測符号化」理論の観点から、VNSには脳の高次領野と低次領野の間を伝播する信号を調整するはたらきがあるのではないか、と考えるようになりました。

予測符号化とは、どのような理論でしょうか。

脳の情報処理を説明する理論の一つです。脳の高次領野には過去の経験から作られた「内部モデル」があり、それに基づいて「今何が起こっているか」を予測します。この予測信号は脳の高次領野から低次領野へ伝播され、予測と実際の入力が一致しているかを確かめます。そこに誤差があると、「予測誤差」が低次領野から高次領野へと伝播して内部モデルを書き換える、という流れです。

高次領野から低次領野へと予測を伝播する信号を「フィードバック信号」、低次領野から高次領野へ予測誤差を伝播し、内部モデルを更新する信号を「フィードフォワード信号」といいます。これらの信号がそれぞれ、情報処理におけるトップダウンとボトムアップの役割を担っています。

私は、VNSがフィードフォワード信号を強め、いわば「フィードフォワード・エンハンサ」として機能することで、フィードフォワードとフィードバックのバランスを調整していると考えました。

予測符号化理論の概念図。脳内には表層から深層にかけて、低次領野と高次領野が存在するが、フィードフォワード信号は主に大脳皮質の表層が担い、フィードバック信号は深層が担うと考えられている

予測符号化理論に従うと、VNSの効果はどのように説明できるのですか。

てんかん発作は、脳の高次領域の異常がフィードバック経路を通って脳全体に伝わることで生じます。したがって、VNSがフィードフォワード信号を強めれば、相対的にフィードバックが抑えられ、発作が収まると説明できます。

またVNSのさまざまな効果も、フィードフォワード信号の増強によって統一的に理解できます。フィードフォワード信号が強まり内部モデルが更新されるプロセスは、認知や記憶の過程そのものを意味しており、認知・記憶能力の向上につながります。また「うつ」を生み出す悲観的な内部モデルが更新されれば、うつ状態からの回復が期待できます。さらに、脳機能障害の患者さんは、障害前の身体モデルが機能しなくなっているため、リハビリを通じて「現在の身体状態に合った新たなモデル」へ更新しなければなりません。フィードフォワード信号が増強されることで、新しい身体モデルの獲得がスムーズになり、リハビリの促進につながるのです。その一方で、内部モデルの活用を抑えるため、思考の柔軟性や創造性は低下します。

フィードフォワードとフィードバック、両者のバランスを適切に保つことが脳のレジリエンスにつながるという考えのもと、本プロジェクトでは、VNSのメカニズム解明に加え、リハビリや日常生活で利用できる新しいフィードフォワード・エンハンサシステムの開発も目指しています。