東京大学先端科学技術研究センター 教授  神崎亮平先生 インタビュー「昆虫嗅覚センサー情報処理による匂い源探索装置の開発」(第3回)


その実験は、もう始まっているのですか。

 最近ドイツに行って、他の研究者と打ち合わせをしてきました。最終的には体育館くらいの空間で、改変した触角を搭載したドローンを飛ばす計画をたてているところです。
 将来的には、火災の匂いや有害物質の匂いなど、人体に害を及ぼす匂いを空気中から検知し、すみやかに発生源を特定して早期対応に繋げられるような装置を作ることができればと思っています。

今後が楽しみです。ところで検知した匂いを探し出すという行為を、カイコガは約1万個のニューロンで行っているということでしたが、先生は昆虫のニューロンの1つひとつの働きや形を調べて、データベースを作っていますよね。

 はい。現在カイコガのニューロン1600個分のデータを確認しています。
 1万個のなかの1600個ですから「少ない」と思うかもしれませんが、匂いや光、物体の動きといった外部からの刺激に対してニューロンがどのように反応するのか、どのような形をしているのかを確認していくという作業は、とても大変なことなのです。
 具体的な方法を説明しますと、生きている虫の頭を開いて、微分干渉顕微鏡の映像を見ながら、マニピュレータという1マイクロメートル(1000分のミリ)以下の精度で操作できる装置を使用し、5から10マイクロメートルしかないニューロンに針を刺します。
 この針はガラス微小電極といって、0.1マイクロメートル程度の穴が空いています。穴の中には電解質の溶液や、電荷を持つ蛍光色素の溶液が入っていて、ニューロンに流れる電気反応を計測したり、蛍光色素を注入してニューロンの形を明らかにすることができます。

 ガラス微小電極は僅かな力が加わればすぐに折れてますし、うまくニューロンに刺せたとしても、刺激を与えている時間はその状態を保持しなければなりません。虫が動かないよう固定はしますが、生きている以上完全に静止することはないので、経験と技術がなければ失敗してしまいます。

気が遠くなるような作業です。それでは1万個まで調べ終わらなければ、匂いを探し出すという脳の働きは再現できないのでしょうか。

 いいえ。本来ならきちんと1万個の細胞を調べるべきなのですが、それでは時間がかかりすぎるので、今は数百個のデータを用いて、コンピュータ内で仮想の脳を構築しています。脳の中には似たような働きをする細胞があるため、実際に調べた1細胞のデータを、まだ調べていない別の細胞10個分に当てはめたり、イメージングという手法で判明したデータで補ったりしています。

イメージングは、細胞が刺激に反応したときに光るよう、遺伝子操作を行うことでしたね。

 そうです。以前のインタビューでご説明した「センサ昆虫」や「センサ細胞」を作る際にも遺伝子工学の技術を使いましたが、ある特定のタンパク質を作る遺伝子をカイコガのタマゴの中に入れると、匂いに反応したときに細胞が光るカイコガを作ることができるのです。

 これまで遺伝子操作技術といえばショウジョウバエの独壇場でしたが、農業生物資源研究所(生物研)や、櫻井健志特任講師グループの努力によって、カイコガでも可能になりました。
 しかしカイコガのタマゴに遺伝子を注入する作業は極めて難しく、私たちも実際にやってみましたが、成功率は1%くらいでした。最近、ひじょうに優れた遺伝子改変技術が開発され、その効率は劇的によくなりつつあります。

ニューロンに針を刺して調べる方法も、イメージングも、どちらも大変な作業ですね。最先端のテクノロジーを用いているにも関わらず、その成功率が個人の技術に左右されるということに、正直驚いています。

 私たちが使用する針(ガラス微小電極)は、専用の機械で作りますが、全員が同じ針を使っているわけではありません。調理人が包丁にこだわるように、個人によって使いやすい長さや形が決まっているため、一人ひとり違う針を作成しています。
 最初のうちは「1日かけて作業をしたのに、1つもデータが取れなかった」という状況が続きます。どの神経がどこにあるか分からないため「匂い情報を処理する神経を調べたいのに、光に反応する神経ばかり当ててしまう」といったことが頻繁に起こるためです。釣りと同じですね。鯛を釣りたいのに、ヒラメばかりが釣れてしまう。しかし経験を積めば、鯛がいそうな場所がだいたい分かるようになり、上手くいけば穴場を発見できるようになるでしょう。同じように私たちの研究も、やっているうちに脳の構造が頭の中に思い浮かぶようになり、どのあたりにどの神経が走っているのか、次第に見当が付くようになります。
 釣りと異なるのは、目的と合致した穴場を見つけられるようになっても、なるべくあちこちのデータを取らなければいけないことです。同じ場所ばかり調べていると、データが偏ってしまいます。

特定の場所だけを掘り下げて調べるのではなく、全体的に調べる必要があるということですか。

 もし私が脳の一部分だけを調べ続けて、その部分の新しい機能を見つけたとしたら、それは「すごい発見だ」と言われるでしょう。しかし、その機能がどれだけ重要かは、脳全体を調べ終わってからでなければ判断できません。
 昆虫の脳は小さく、調査対象である脳細胞の数も人間や哺乳類よりはるかに少なくて済みますが、それでも全てを調べることは困難です。だからこそ幅広くデータを取り、生物の脳と似た構造を持つ仮想脳をコンピュータで作成して、さまざまなシミュレーションができるようにしたいのです。