ELSI(Ethical, Legal and Social Issues)分野
最先端科学技術の社会的・倫理的・法的側面

藤垣 裕子 先生

領域代表者 
東京大学 大学院 総合文化研究科 広域科学専攻 広域システム科学系
教授

科学技術のガバナンスへの能動的市民参加、RRIの誕生

欧州では最近、「ELSI」と「科学技術への市民参加」という2つの流れを基礎として、RRI (Responsible research and Innovation:責任ある研究とイノベーション)という概念が科学技術政策のなかでも使われるようになっています。本領域でもRRIを強く意識しています。RRI概念が生まれた経緯を知るために、何故欧州を中心に「科学技術に関する課題に能動的な市民参加が必要である」という動きが生まれたのかをみてみましょう。

まず1990年代に英国でBSEに感染した牛が大量に発見されました。そのとき「BSEは牛の病気だから、人間が摂取しても害はない」として、英国の農林大臣が自分の娘にハンバーグを食べさせるデモンストレーションを行いました。ところが、その6年後に英国政府は「BSEに感染した牛の摂取は、クロイツフェルト・ヤコブ病を発症するリスクがある」と、公式に認めざるをえなくなったのです。この一連の経緯から、英国では「専門家や政府に全てを任せてはいけない」という不信感が高まり「政府は市民を交えて議論することで、信頼を回復するべきだ」という気運が高まりました。

このBSE問題の経験を活かすために、英国ではナノテクノロジー(原子や分子の配列をナノスケール、つまり100万分の1ミリメートルで制御し、任意の性質を持つ材料や機能を開発したり、より高度なデバイスを実現する技術)を対象として、市民を交えての議論が始まりました。ロイヤル・ソサイエティ(王立協会)の提案を受けて、2005年には市民陪審員制度(ナノ・ジュリー)を試行的に行い、専門家と市民による「ナノテクノロジーの将来と果たすべき役割に関する議論」を実施したのです。これは科学技術ガバナンス(統治のプロセス)に対して、市民参加を行う具体的な事例です。英国以外の欧州各国でも、GMO(遺伝子組み換え作物)に対するコンセンサス会議(市民参加型の会議)やナノテクノロジーをめぐる市民会議が2000年初頭に多く企画され、科学技術ガバナンスに対する市民参加が肝要であることが広く社会に共有されるようになってきました。

日本は科学技術立国である以上、責任ある研究とイノベーションによって世界をリードする必要がある

先に述べたELSIと、こうした市民参加の流れを基礎として、RRIの概念が誕生しました。RRIとは、研究およびイノベーションプロセスにおいて、社会のアクター(研究者、市民、政策決定者、産業界、 NPO など)が協働することです。倫理綱領はもちろん、社会に研究成果が埋め込まれた際に生じるインパクトやメリット、研究者に求められるアウトリーチ、透明性や批判的自省の確保、利害関係者の参加などのコンセプトが含まれています。

RRIのエッセンスには「議論を開く」「相互に議論を展開する」「新しい制度化を考える」があり、科学技術と社会の接点で起こる問題を自分のこととしてとらえる「能動的市民」の参加も重要な特徴です。

先にも述べたように、本領域ではRRIを強く意識しています。専門家に研究開発、倫理的議論を全て任せる時代は終わりました。日本でも、市民自らがELSIを議論しなければならない時が来たと考えます。

他領域の研究者同士の交流が不可欠

現在では日本でもELSIについて注目が集まっており、内閣府の第五期科学技術基本計画(2016年〜2020年)にも記載があります。

科学技術に対する議論は、ただ参加すれば良いというものではありません。能動的市民、および様々な分野の専門家の意見を必要とします。しかし、現在の日本は、RRIやELSIを目的として各領域の研究者が交流する機会は非常に限られています。ELSIの研究者の数が圧倒的に不足しているためです。


他領域の進んだ知見を、どのように応用するかが重要

国内で積極的にELSIの普及を促すためには、まずは研究者同士が積極的に交流・議論をすべきでしょう。たとえば、遺伝子操作の分野ではELSIの議論が進んでいて知見がありますので、その知見を他の分野、たとえば情報分野やAI、気候工学といった分野にも広げていくことが大事です。セコム科学技術振興財団では、この特定領域研究助成で情報セキュリティ分野の「IoT時代のサイバーセキュリティとセキュリティ経営・法・社会制度」(領域代表者:湯淺墾道先生)を実施されていますので、その分野の研究者との交流も可能です。

現在、私は大学で学部1・2年生、および3・4年生向けの「科学技術社会論」の授業を担当しています。授業を議論形式で進行する必要があることから、大教室で大人数を教えるには向いていません。限られた時間では議論を深めることができませんし、模範解答をテスト用紙に記入すればよいというものではないからです。

ELSIを学生に教育するうえで「どの時期から教育を開始するべきか」「学部生と大学院生のどちらがいいか」は、現在議論しているところです。ELSI的な観点を持つ優れた研究者に成長してもらうためには、その基礎段階として何かひとつ専門分野を極めてもらい、そこに特化して学んでもらうという方法もあるでしょう。