ELSIを考慮したナッジ手法の開発と評価:
節水行動と食品選択を例にして
植田 一博 先生

東京大学 大学院 総合文化研究科 広域科学専攻
広域システム科学系 教授

助成期間:平成31年度~ キーワード:行動経済学 認知脳科学 認知科学 研究室ホームページ

1993年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻博士課程修了、博士(学術)。その後、同大学の研究生、助手を経て1999年に助教授となり、2000年からは情報学環も兼任する。2007年に准教授、2010年に教授となり、現在に至る。 2003年より情報通信研究機構民間基盤技術研究促進制度専門委員、2009年より日本認知科学会常任運営委員(2019-2020年は会長)などを務める。

まずは「ナッジ」について、教えてください。

ナッジ(nudge)とは、英語で「背中を押す、肘で軽くつつく」といった意味ですが、行動経済学の分野では「情報の提示方法や選択肢の構成の仕方を工夫することで、人々に対して社会的に望ましい判断や行動を誘導すること」を意味します。2017年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカの行動経済学者、リチャード・セイラーが提唱した概念です。

わかりやすい例として、オランダのスキポール空港にあるトイレが有名です。男性用小便器の排水溝の近くにリアルなハエのイラストが描かれているため、利用者は無意識にそのハエをめがけて用を足す。すると尿が周りに飛び散らず、清掃にかかる時間や費用が削減されるというわけです。他にも、ビュッフェ形式のレストランで、人々が健康的な食事を選択できるよう、列のはじめのほうに野菜を並べるという陳列形式なども、ナッジの一種ですね。

うまく活用すれば納税促進や節水、温室効果ガス削減等さまざまな社会的課題の解決が見込めるため、世界中で注目され、国家規模での導入が始まっています。例えばイギリスでは、ナッジを活用して税金滞納者に納税を促す取り組みを行い、成果をあげました。

ナッジは私たちの身近なところから国の政策まで、広く活用されているのですね。では、悪用される恐れもあるのではないでしょうか。

その通りです。人間の心理に巧妙につけこむ悪質なマーケティング手法や、メディアによる一面的な報道などは、ナッジの悪用にあたる可能性が高いです。

しかし、情報の受け手である私たちは、発信者の思惑通りに誘導された自身の認知バイアスを自覚できず、自らの自由意思で判断や選択をしていると思い込みがちです。これはELSIの観点から見ても、極めて由々しき問題です。

にもかかわらず、ナッジ手法に対する倫理的な規定や規範はいまだ存在しておらず、また、ELSI分野からナッジ手法について研究した前例もありません。 

ナッジの導入が盛んになりつつある中で、ナッジに対する倫理的規範の策定は喫緊の課題です。同時に、個人の自由意思を侵害する誘導の影響を軽減するため、情報の受け手がリテラシーを身につける仕組みづくりも不可欠です。私たちはその第一歩を踏み出すべく、研究を始めました。

「メディア等の誘導に惑わされず、人々が真の自由意思によって判断ができるように導く。そのような選択肢の設計(ナッジ)が、私たちの研究テーマです」と語る植田先生

それでは今回の研究内容について、詳しく教えてください。

本研究の目的は、ナッジの手法開発とその効果の検討、およびELSIの観点から意思決定者への影響を確認し、ナッジの健全な活用を促進するための知見を得ることです。

はじめに「人々の節水行動を、自由意思を侵害されたと感じさせないナッジ手法で実現する」ことを目標に、さまざまな実験を行いました。

まず、実験参加者に対して「あなたの水道使用量は平均より多いので節水しましょう」と書いて節水行動への誘導を試みたところ、一定の効果はありましたが、もともとの使用量の多い人の中には「ストレスを感じる」という人が出てきました。これは、自由意思を尊重するナッジの精神に沿うものではありません。

そこで思いついたのが「顔文字」です。顔文字を見ると感情の状態が変化することが知られており、これを利用しました。

しかし、水の使用量が平均より多い人に泣いている顔の顔文字を、平均より少ない人にニコニコ顔の顔文字を表示させる「顔文字方式」では、使用量が少ない人の節水へのモチベーションが上がらないため、十分な効果が得られませんでした。