例えば、匂い物質と匂い受容体の組み合わせを、暗号として用いることができます。現在、セキュリティの分野では一方向性関数を用いた公開鍵・秘密鍵暗号が用いられています。一方向性関数とは、順方向であれば容易に計算できるのに対し、逆関数の計算は著しく困難な関数のこと。公開鍵・秘密鍵暗号とは、データの暗号化に用いる「公開鍵」と、データの解読に用いる「秘密鍵」があり、前者から後者を割り出すことができないという暗号です。
匂い物質と匂い受容体の関係は、一方向性関数に類似しています。匂いを感じるメカニズムについて先ほどご説明しましたが、およそ400種類存在する匂い受容体の「n番目とn+1番目を興奮させる匂い物質の組み合わせ」は無数に存在するので、前者から後者を辿ることは事実上不可能なのです。
匂い物質と匂い受容体を用いた公開鍵・暗合鍵暗号の仕組み。実際には、匂い物質はおよそ40万種類、人間の匂い受容体はおよそ400種類存在し、組み合わせの数は膨大であるため、暗号を解読するのは著しく困難であるこの暗号を応用すれば、人や物の認証に用いることができます。たとえば、どの匂い物質を使うかは秘密にした上で、ブランドのバッグに本物であることを証明する匂いを「秘密鍵」として染み込ませます。一方で、ブランド専門店やリサイクルショップには、匂いを読み取る機械を「公開鍵」として配布する。こうすることで、各店舗の機械でバッグの匂いを調べれば、偽物か本物かを見分けることができるようになります。
匂いを読み取る機械をいくら調べても、バッグに染み込ませた匂いを再現することはできません。さらに、染み込ませる匂い物質の中に、分析を妨害する物質を加えておけば、匂いの複製も容易にできなくなります。
「匂い物質の種類」および「匂い物質と匂い受容体の組み合わせの数」は著しく多いため、この暗号の解読は事実上不可能です。これは、匂いの研究の難しさに繋がっています。何かの匂いを嗅いでいる時、その生物は脳で匂い物質の複雑な組み合わせを感じているのですが、その物質群と応答の関係を解明することは非常に困難なのです。






画面手前の2枚のプレートがLSPRフィルム。匂い物質を近づけると、フィルムの色や透過性が変化する