HOME > 研究者 > 林健司先生 > 分子を認識する二次元プラズモニックガスセンサアレイによる匂いの痕跡識別システム(第1回)

匂い物質の特性から、匂いにアプローチすることができるのですね。匂い物質に着目することで、他にどのようなことができるようになりますか?

例えば、匂い物質と匂い受容体の組み合わせを、暗号として用いることができます。現在、セキュリティの分野では一方向性関数を用いた公開鍵・秘密鍵暗号が用いられています。一方向性関数とは、順方向であれば容易に計算できるのに対し、逆関数の計算は著しく困難な関数のこと。公開鍵・秘密鍵暗号とは、データの暗号化に用いる「公開鍵」と、データの解読に用いる「秘密鍵」があり、前者から後者を割り出すことができないという暗号です。

匂い物質と匂い受容体の関係は、一方向性関数に類似しています。匂いを感じるメカニズムについて先ほどご説明しましたが、およそ400種類存在する匂い受容体の「n番目とn+1番目を興奮させる匂い物質の組み合わせ」は無数に存在するので、前者から後者を辿ることは事実上不可能なのです。

匂い物質と匂い受容体を用いた公開鍵・暗合鍵暗号の仕組み。実際には、匂い物質はおよそ40万種類、人間の匂い受容体はおよそ400種類存在し、組み合わせの数は膨大であるため、暗号を解読するのは著しく困難である

この暗号を応用すれば、人や物の認証に用いることができます。たとえば、どの匂い物質を使うかは秘密にした上で、ブランドのバッグに本物であることを証明する匂いを「秘密鍵」として染み込ませます。一方で、ブランド専門店やリサイクルショップには、匂いを読み取る機械を「公開鍵」として配布する。こうすることで、各店舗の機械でバッグの匂いを調べれば、偽物か本物かを見分けることができるようになります。

匂いを読み取る機械をいくら調べても、バッグに染み込ませた匂いを再現することはできません。さらに、染み込ませる匂い物質の中に、分析を妨害する物質を加えておけば、匂いの複製も容易にできなくなります。

「匂い物質の種類」および「匂い物質と匂い受容体の組み合わせの数」は著しく多いため、この暗号の解読は事実上不可能です。これは、匂いの研究の難しさに繋がっています。何かの匂いを嗅いでいる時、その生物は脳で匂い物質の複雑な組み合わせを感じているのですが、その物質群と応答の関係を解明することは非常に困難なのです。

匂いの研究がいかに困難であるかが、あらためて理解できました。その困難を克服するために、先生が開発されたセンサについて教えて下さい。

本研究で開発し、使用しているのは、「高速匂い応答二次元ガスセンサ」です。このガスセンサには、Au(金)の金属ナノ粒子を二次元状に配列したガラス板「LSPRフィルム」(二次元匂いセンサ画素アレイ)が用いられています。

金属ナノ粒子は、特定の波長の光を当てると、粒子内の自由電子が振動し、光と共鳴します。これは「LSPR(Localized Surface Plasmon Resonance:局在型表面プラズモン)現象」と呼ばれる現象です。ステンドグラスなどの着色ガラスも、この現象を利用しています。LSPR現象が起こると、人間の目には色や光の透過性が変化したように見えるのです。

LSPRフィルムは、この現象を応用しています。化学物質を近づけるなどフィルムの周辺環境が変わると、金属ナノ粒子のLSPR現象が変化し、フィルムの色や光の透過性などが変化するという仕組みです。

画面手前の2枚のプレートがLSPRフィルム。匂い物質を近づけると、フィルムの色や透過性が変化する

そして、このフィルムに匂い物質を近づけ、色や透過性の変化の様子をハイパースペクトルカメラ(光を波長ごとに分光して撮影するカメラ)で撮影すれば、目に見えない匂い痕跡や、匂いの流れなどについて、感度・分解能が高い画像情報を得ることができます。

この匂いセンサは、現在実用化されている装置とは、どのような違いがあるのでしょうか。

匂い物質を捉え、その特性にアプローチする点です。従来の匂いセンサには、金属酸化物半導体ガスセンサや、水晶振動子ガスセンサなどがありますが、それらは匂い物質の分子を識別することができません。

後ほど詳しくご説明しますが、LSPRフィルムの表面には、特定の分子のみを通過させるフィルタ膜が付けられています。本インタビューの冒頭でご説明したように、人間の体臭を構成する匂い成分の構成比は、人によって異なります。その匂い物質に応じたフィルタ膜で識別して可視化することによって、災害現場で特定人物の捜索を行うロボットの開発が可能となります。

匂い画像による対象識別。匂い痕跡・経路の追跡。災害現場等での人の探索。この3つが本研究の目的です。

匂いには多くの可能性が秘められているものの、情報としての活用や研究には様々な困難が伴うことが、よくわかりました。その課題を乗り越えるために、先生は匂い物質にアプローチして、画期的な装置を開発されました。次回のインタビューでは、高速匂い応答二次元ガスセンサの仕組みについてさらに詳しくお伺いするとともに、センサを搭載したロボットや実験などについてもお聞きします。

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