有臭の揮発性化学物質(匂い物質)は、およそ40万種類存在し、それが100~1,000種類ほど組み合わさって、匂いが作られています。組み合わせの数は膨大で、そのため、匂いには豊富な情報が含まれています。
たとえば、呼気や汗などには、体内の生理代謝の過程で生じた揮発性化学物質が含まれています。こうした成分は、病気になると変化するため、体臭にも異常が生じることがあります。したがって、匂いを病気の診断や、健康の管理にも役立てることが可能です。
また、人間の生理的な体臭は、有機酸類やアルコール類、フェノールによって構成されていますが、その構成比は、遺伝子のレベルで決定しているので、基本的に人によって異なります。つまり、体臭を分析することで、人の探索や追跡、個人識別に役立てることが可能なのです。
匂いには非常に多くの情報が含まれており、分析によって様々なことがわかる可能性がある
人間以外の生物には、非常に優れた嗅覚が備わっています。災害救助犬がその典型例ですが、鮭は生まれた川に回帰する際に匂いを頼りにしますし、マウスも匂いを手掛かりにして近親交配を避けていることが分かっています。科学がどれほど発達しても、そうした生物の卓越した能力を再現することは難しいのですが、自分の専門である電子工学の分野から近づくことができないかと考えて、現在の研究を始めました。
人間の脳は、言語と視覚情報(画像)、音声情報を処理するために発達してきました。しかし、匂いの情報は目で見ることも聴くこともできません。
また、言語が、知覚や思考を司る大脳皮質で処理されるのに対し、匂いは、本能的行動や情動を司る大脳辺縁系の嗅球で処理されます。それゆえ、匂いを言葉で明確に説明することは困難です。実際、視覚情報は「赤い」「まぶしい」など、固有の言葉でダイレクトに説明できますが、匂いに関しては「花の匂い」「胸がすーっとする匂い」というように、他の事物にたとえたり、曖昧で抽象的、主観の混じった言葉でしか説明できませんよね? 言語にできないため、“情報”として他者と共有したり、伝達や再現することは困難です。
さらに、人間の脳は対象を認識する時に、目や耳、鼻などの感覚器から得た情報をもとに、空間的な配置や、形状、時間的な変化を手掛かりにしています。しかし、匂いは空間の中で形を持ちませんし、時間的な変化も大きくありません。しかも、広がりやすく、他の匂いと混在しやすいため、空間的な配置を手掛かりにすることもできません。それゆえ、人間は匂いを“情報”として認識したり、十分に活用することができないのです。
類人猿はおよそ3,500万年前に三色視を獲得し、視覚から多くの情報を得るよう進化しましたが、それによって嗅覚の必要性が薄れたこと、また二足歩行により鼻が地面から遠ざかったことなどにより、人間の嗅覚は他の生物に比べて著しく退化しています。実際、匂い物質を認識する匂い受容体は、犬に約900種類、マウスやラットに1,000種類以上存在しますが、人間には約400種類しか備わっていません。
音声や映像は、録画・録音して情報を再生することができますが、匂いはそれができないため、匂いを数値化する研究は進んでいません。
また、冒頭でご説明したように、匂いは非常に多くの種類の匂い物質から構成されています。これらを全て網羅した上で計測することは、著しく困難です。また、検知できないほど微量の匂い物質が、全体的な匂いを決定づけることもあります。しかし単純に測定すると、多量に含まれる匂い物質ばかりが検出されてしまうので、匂いの研究は難しいのです。