医療技術の発達にもかかわらず、がん患者は年々増加しており、医療費の増大や医療の担い手不足など、様々な社会問題を引き起こしています。がんを克服し、安全安心な社会を作るためには、発症そのものを抑えるアプローチが最も有効といえるでしょう。
この課題に対して、石谷先生はゼブラフィッシュ実験系を活用して「がん発生超初期」の解明に取り組まれました。最終的には、ヒトのがん予防技術の、シーズの創出を目指しています。
第2回では、Wntシグナルが異常活性化した前がん細胞を隣接細胞が感知し、排除するメカニズムの詳細や、前がん細胞の「マーカー」候補の発見、オルガノイドを用いた前がん細胞排除機構の検証、がん予防薬の発見・開発の可能性などについてお伺いします。
まずは、前回のおさらいからお願いします。
がんを克服するためには、発症自体を予防する技術の開発が不可欠であり、がん発生超初期のメカニズムを解明する必要があります。しかし、その研究はいまだに進んでいません。
そこで私は、ゼブラフィッシュを用いたイメージング実験系を独自に立ち上げ、その解明に取り組んできました。これまでに、前がん細胞が隣接細胞によって感知されて体外へ排除される仕組みや、遺伝子変異やシグナルの異常活性化などの前がん細胞が持つ異常の種類によって、排除のメカニズムが異なることを明らかにしています。また、がん抑制遺伝子の追加変異や、組織の環境変化により、その排除機構が破綻することや、隣接細胞と前がん細胞の細胞間コミュニケーションによって、初期がん腫瘍の形成が促されることがわかりました。
とはいえ、これらの一連の流れはまだ発見されたばかりで、詳しい作用機序などは不明のままです。
そこで本研究では「がん発生超初期」の解明に取り組みました。これまでに、新しく立ち上げた空間オミクス技術によって隣接細胞を解析し、前がん細胞排除のメカニズムに迫りました。
これと並行して、ゼブラフィッシュ実験系と、セルソーターを用いたオミクス実験系を活用して、Wntシグナルが異常活性化した前がん細胞が、隣接細胞によってどのように感知、また制御されるのかについて、メカニズムの解明を進めています。
さらに、明らかになったメカニズムや、その過程で発見された物質を手掛かりに、初期がん腫瘍を標的とした薬剤の探索も行っていく予定です。最終的には、ヒトオルガノイドを用いることで、ゼブラフィッシュ実験系で得られた知見を「ヒトのがん予防技術」に発展させていくことを目指しています。
どのようなメカニズムが明らかになったのでしょうか。
Wntシグナルは、幹細胞の増殖や分化、生存を制御するシグナルです。これに加えて「カドヘリン」を制御するはたらきもあります。
「カドヘリン」は、細胞膜を貫通するタンパク質です。細胞外では隣接細胞のカドヘリンと結びついて細胞どうしを接着し、細胞内では「アクトミオシン」というタンパク質複合体と結びつき、張力を発生させて、細胞間の接着構造を安定させています。
Wntシグナルの強さは、このカドヘリンと関連しています。すなわち、Wntシグナルが活発な領域はカドヘリンが多く、細胞間の張力が強くなるのに対し、不活発な領域はカドヘリンが少なく、張力が弱くなるのです。
では、Wntシグナルが異常活性化した前がん細胞が発生すると、隣接細胞との間のカドヘリンの量や、細胞間の張力も変化するのでしょうか。
その通りです。カドヘリンが増加した結果、Wntシグナルが異常活性化した前がん細胞と、その隣接細胞の間にだけ異常に高い細胞間張力が発生します。
すると、周囲の細胞間張力のバランスが崩れ、隣接細胞が前がん細胞に物理的に引き寄せられてしまいます。
この物理的なストレスに反応するのが、隣接細胞の「PIEZO」というメカノセンシティブカルシウムチャネルです。
「メカノセンシティブカルシウムチャネル」とは、細胞膜などに存在し、物理的な力に反応して口を開いて、細胞内にイオンなどを流入させるタンパク質です。PIEZOは、周辺の細胞膜に隣接細胞の移動に伴う機械的刺激が加わると、これに反応して開口し、カルシウムイオンなどの陽イオンを細胞内に流入させます。
隣接細胞は細胞間張力の変化を通して、前がん細胞を感知するのですね。カルシウムイオンが流入した隣接細胞は、その後、どのようにして前がん細胞の細胞死を誘導するのでしょうか。
カルシウムイオンが流入した隣接細胞では、「Annexin A1」の発現と放出が誘導されます。Annexin A1は、細胞外に分泌される性質を持つタンパク質であり、細胞死を制御する能力を持つことが知られています。この場面でも、カルシウムイオンの流入の下流で発現誘導され、前がん細胞にシグナルを送ることで細胞死を誘導するのです。
なお、このメカニズムを破壊すると、前がん細胞が排除されずに腫瘍様の細胞塊が形成されることも確認しています。

Wntシグナルの異常活性化がカドヘリン量を増加させた結果、細胞間張力が特定の領域で異常に高くなり、隣接細胞が前がん細胞に接近。この動きが物理的なストレスとなり、隣接細胞のカノセンシティブカルシウムチャネル「PIEZO」が開口、そこからカルシウムイオンが流入した結果、Annexin A1が放出、最終的に前がん細胞の細胞死が誘導される
細胞死のメカニズムについて詳しく調べるために、Wntシグナルが異常活性化した前がん細胞のRNAシーケンス解析を行いました。すると、AnnexinA1の下流で「Foxo3」という遺伝子の発現が増加していることを発見しました。