「国民病」として、多くの人命を奪ってきた「がん」。がんの克服は、健康で安全安心な生活の実現において、最も重要な課題の一つとなっています。しかし、従来のがん研究の多くは、検出可能なレベルにまで成長したがんを対象にしており、発生超初期についての理解は進んでいません。
そのような状況において、これまで知られていなかった「がん発生超初期」メカニズムの解明と、予防技術の「シーズ」創出に取り組んでおられる、大阪大学微生物病研究所環境応答研究部門の石谷太先生にお話を伺いました。
まず先生が、がんをテーマにした研究に取り組むようになったきっかけを教えてください。
私は昔からヒトの生命や活動に強い興味があり、そのメカニズムを解明したいと考えてきました。大学や大学院では生物学、特に発生に関心を持ち、発生やそれに関わる細胞シグナル伝達の研究に取り組むようになりました。
研究者となり、独立してからもこのテーマを追求してきましたが、周囲の助言や諸分野の研究者との交流をきっかけに、原点に立ち返り、再びヒトの生命のメカニズムに関わるサイエンスを志すようになりました。
そうして行きついたのが、がんや、がんの細胞競合(細胞集団内に異質な細胞が発生すると、隣接細胞との相互作用を介して排除される現象)に関する研究です。
がんの治療技術は確実に発展しており、生存率も大きく向上しています。しかし、患者数はいまだに増加傾向にあり、QOLの低下や就労問題も深刻化しているため、その解決に貢献したいという思いが芽生えました。
特に私は、学生の頃から、がんに関わりのある「Wnt(ウィント)シグナル」について研究しており、その知見を活かせるのではないかと考えました。
Wntシグナルとは何ですか。
線虫や魚類からヒトを含む哺乳類に至るまで備わっている、細胞内の情報伝達経路です。幹細胞の増殖や分化、生存を制御し、胚の発生や組織の構築、維持、再生などに貢献します。
その一方で、異常に活性化すると、さまざまな病気に繋がることがわかっています。「がん」もその一つです。大腸がん患者の約80%に、Wntシグナルの異常活性化が見られると言われています。
そのため、がんを予防するためには、Wntシグナルをはじめとした細胞シグナルの異常活性化や、遺伝子変異を起こした「前がん細胞」(放置すると、がん細胞に進行するおそれのある細胞)から初期のがん腫瘍が形成される「がん発生超初期」プロセスを明らかにする必要があります。
しかし、このプロセスに関する研究は進んでいません。
どうして、がん発生超初期の研究が進んでいないのでしょうか。
超初期段階のがんは、ひじょうに小さく発見が困難です。また、正常細胞と大きな違いがない場合も少なくありません。
しかも、がん細胞は体内でランダムに発生します。見分けるのが難しく、いつどこに発生するのかわからないものを検出することは、ほぼ不可能です。
なお、バイオインフォマティクスの分野では、がん腫瘍の遺伝子変異や遺伝子発現を観察し、そこから、がんの発生超初期のメカニズムを推測する、という手法がとられてきました。しかし、この手法では、重要なプロセスを見落とす危険性があります。
前がん細胞がどのように初期がん腫瘍になるのか、それを正確に理解するためには、リアルタイムで観察する必要があるのです。

既存のがん研究の多くは、検出可能なレベルにまで成長した、発生後期のがんを対象にしている。これによりがんの悪化や進行のプロセスは明らかにされたが、「がん発生超初期」に関しては未着手であった
データからの推測だけではなく、実証的な手法が必要なのですね。
そうです。これを可能にするために、私はモデル生物として「ゼブラフィッシュ」を用いる実験系を立ち上げました。
ゼブラフィッシュは、インド、パキスタンの小川や水田に生息するコイ科の淡水魚です。ヒトと類似した細胞や遺伝子を持つこと、また、1回の産卵で約300個の卵が生まれるため、多くの検体を同時に操作できることから、海外ではモデル生物としてよく使われています。
特に稚魚は透明で、全身の細胞の状態が外から見えます。そのため「ライブイメージング」(生きたまま細胞のはたらきや遺伝子発現の様子を可視化し、観察する手法)に適しているのです。
マウスやラットを使うよりも、がん発生超初期のプロセスを正確に捉えやすい、ということでしょうか。
従来の研究では「その遺伝子変異が本当にがんに関与するのか」を検証するために、マウスなどのモデル生物の、特定の臓器のすべての細胞にその遺伝子変異を導入していました。
しかし実際には、遺伝子変異した前がん細胞が臓器内に散発的に発生して、それが蓄積した結果、がんが進行していきます。そのため、従来手法では本来のプロセスを再現できません。
これに対し、透明な体を持つゼブラフィッシュの稚魚であれば、本来のがんの進行プロセスに近い形で、前がん細胞を導入できます。
こうした特性を生かし、これまでの研究で、私は稚魚の上皮をヒトの管腔臓器(消化管など、管状または袋状の構造を持つ臓器)の上皮のモデルに用いて、がん発生超初期のプロセスを調べました。
具体的には「Ras遺伝子変異」を持つ前がん細胞を人工的に作製・導入し、その変化を観察しました。Ras遺伝子は代表的な「がん遺伝子」であり、ヒトの全がんの約30%で、この遺伝子の異常活性化変異が確認されています。そのため、この時も、がん腫瘍が形成されると予測していました。

ゼブラフィッシュの場合、通常、2日以内に初期がん腫瘍が形成される。そのため、発がんの候補因子を極めてスピーディーに調べることができる
ところが、予想に反して、がん腫瘍は形成されませんでした。上皮組織から前がん細胞が、速やかに排除されることを発見したのです。