私は大学では化学を専攻していましたが、「分子などの目に見えないものではなく、視認できる生命現象を研究対象にしたい」と思うようになり、卒業後に大阪大学大学院生命機能研究科に進学しました。そして、「なぜ心臓は左側にあるのか」を追究している濱田博司教授の研究室に所属し、丸い受精卵が非対称の個体になっていく形態形成に強く興味を惹かれました。
胚には、前後軸・背腹軸・左右軸の3軸があります。最初に前後軸が決定し、その後に背腹、左右の軸が決まるのです。そこで、マウス胚の前後軸が生じる起源について研究を行ったところ、「将来頭になる細胞」が突然ポツリと生まれることがわかりました。その反対側が自動的に尾となり、前後軸が決まる。するとドミノ倒しのように残りの2軸も決定して発生が進んでいくという、新たな前後軸の形成モデルを発見したのです。
さらに「将来頭になる細胞」について詳細に調べたところ、Nodalシグナルという分子シグナルを偶然受け取った細胞が「将来頭になる細胞」になることを見つけました。また、この「将来頭になる細胞」を除去しても、別の細胞で「将来頭になる細胞」が生まれていました。つまり、胚は様々な環境にしなやかに適応して、前後軸方向を生み出していることがわかりました。
ドイツ留学を経て日本に帰国したとき、思うような研究費や職を得ることができず、自分の興味と研究テーマを考え直す必要がありました。様々な論文に目を通しているうちに、哺乳類胚が一時的に発生を止める「発生休止」という現象に出会ったのです。
自然界には春夏秋冬、温度や湿度など、様々な環境要因が存在しています。動物は種を存続させるために妊娠・出産・育児を行いますが、食料が少ない冬は育児に適していません。そのため、子どもが多く生き残るための適応戦略を有しています。
発生休止はその一つです。受精卵が子宮に着床する寸前で止まり、そのまま発生を一時的に休止して浮遊した状態となって、春に出産できるタイミングで着床、発生を再開するのです。このような発生休止は、約130種類の哺乳類で確認されています。
たとえば野生の鹿は、春から秋にかけて交尾しますが、出産・育児は春に行われています。また、カンガルーは季節ではなく、授乳の刺激で発生休止が起きると考えられています。生まれたばかりのカンガルーは非常に未熟な状態のため、授乳は母親の袋の中で行われます。その間に交尾があり受精しても、受精卵は途中で休止した状態になり、子どもが袋から出て自立するタイミングで着床、妊娠するのです。1世代目の育児中に、2世代目の出産育児を避けることで、母体の負担を減らし、効率よく子孫を残す戦略をとっていると考えられています。
50〜100年ほど前にマウス発生休止胚の論文報告があり、授乳刺激が母体のホルモン分泌に影響を与え、最終的に子宮に作用し、子宮が何らかの信号を発した結果、胚が発生休止状態になることがわかりました。そして、発生休止したマウス胚の細胞数は150〜200と一定であり、すべての細胞において発生が止まっているとされてきました。
まず私は、昔の論文の報告データを、最新の実験ツールを使って検証してみることから始めました。すると、マウスの発生休止胚で実験を行ったところ、1割程度の細胞はセルサイクル(Cell Cycle:細胞分裂によって生まれた娘細胞が、母細胞となって新たな娘細胞を生むまでの過程)が回っていることが確認できました。
すべての細胞が休止しているように見せかけて、実は一部の細胞は働いていたのです。ここに「休止した胚が発生を再開するメカニズム」を解明する鍵があると思いました。車に例えるなら、休止しているのは見かけだけで、エンジンはアイドリング状態にあるのかもしれません。